「日本アンダーグラウンド演劇再定義の試み」「平原演劇祭」ドストエフスキー《悪霊》

kouminnkan



2006/09/03 (Sun) 平原演劇祭P「ドストエフスキー《悪霊》読書会」  @和戸「和戸公民館」。


(15:00/15:40-18:00 ¥0-)


参加者。高野竜さん一家。帰省中のベビー・ピー主宰氏(根本コースケさん)。自主映画監督の五百蔵容氏(元セガゲームクリエーター?!...と同姓同名なんですが...)。新作映画準備中のヨクナさん。「フォーマルハウト」の酒井康志氏。「ものがたり文化の会」の林陽一さん。ワタクシ。


...読むたびに印象変わる。筋が通っている。ドストエフスキーはいい人。百年たっても人は変わらない。シャートフの女房はご都合主義で出たり死んだり。人称の構成が破綻しているのは有名。伏線が途中で消えている。ステパン氏とワルワーラ夫人のせいでこの小説はとりとめ無いんだ。
筋でなくキャラクター小説だ(スタヴローギン萌えとか...人物の一言で展開が変わる小説)。弱い人間の弱さを描く。全員の末路が書いてある。キリーロフ自殺場面のおもしろさ。
島崎藤村『破戒』は《罪と罰》のパクリ。埴谷雄高...は誤解していたんだろう。ヘーゲル的?歴史観??。共通の神を信じると、国民は...。
登場人物を、赤塚不二夫の漫画のキャラに置き換えると。貴族社会の崩壊を描くのがロシア文学の真髄だった。「五人組」は、社会主義ではなくて、アナキストだろう。ズラウスキー映画どうよ(悪霊:《私生活のない女》。白痴:《狂気の愛》)。
トルストイの小説どうよ。小ささ。からっぽの登場人物たち。小説の生命力。価値観が変わってゆく。普遍が消える。(ここいらはあやふやです)
ダメ人間のカタログ...ステパン氏のダメさをどう受け取るかで分かれて来る。
いかに“中身”が失われるかの小説。〈スタヴローギンの告白(...より)〉が外された理由。...これがあるとスタヴローギンだけ中身がある人間になってしまう。中身が無いこと。中心が無い小説。全員流されている小説。
目標を語らないテロリスト。秘密で人を支配する。うろんなスタイル。背後に何かがあるらしいことはわかる。コミンテルンのはずが無いが。
ピョートルとスタヴローギンの関係がわからない。いろいろな変遷の後、ニヒリストになったスタヴローギン。
スタヴローギンはこれでいいか、と思えるのは,イワン、アレクセイ(《カラマーゾフの兄弟》)がいるからだ。アレクセイの幼稚さでは革命家にはなれない。レーニンの実像(ソルジェニーツィンチューリヒレーニン》)。
ドストエフスキーは気分で人称を変えていたのでは。劇化、映画化で成功したものは、ズラウスキーの一部分と、麿赤児のスブドリガイロフをメインに据えた《罪と罰》くらい。手塚治虫も同じ構成でやっていた。
ピョートルは悪人だ。「悪霊」というが「悪」とは関係ないみたい。
...等々。強烈に語る人が揃って刺激的。いろいろ面白い発言抜けています。アシカラズ。


次回は開高健『日本三文オペラ』。バルザックゴリオ爺さん》。五百蔵さんの映画『狂喜の沙汰』+ヨクナ新作の上映会(冬の野外に限るとか)等を予定。