『今までの人生で一番感謝した体験』(暫定版)。

  • 一、何気ない言葉に覚える感謝。

お世話になった方、目をかけていただいた方、数多くあり、機会があれば、それぞれの方に感謝の気持ちを伝えなければならないのですが、人間どうしても直近の事についての印象を強くもっており、また書き記してみたい欲望も強く、今回はそうしてみることにします。

ふとした言葉に感謝を覚えるというのも不思議なことで、本来ならば、関係の深さや、まわりの変化に流されなかった長い関わりが「感謝」の念につながるのが自然だと思いますが、しがらみからなかなか書きにくく、愛憎半ばということも多いので、「通りすがり」が、印象がかえってすっきりして強いのです。

今、ある種感謝の念、真面目な気持ちで思い返すのは、転勤先だった札幌で出会った課長さんが朝礼で話してくれた言葉。また、名古屋で一緒に働いた三河のリストラ生き残り組みの人たちが、聞かせるともなく語ってくれた言葉になります。

  • 二、どんなことが言葉にされたか。

札幌のN課長。「君たちももう三十代だからお客さんも何時まで若い若いと甘やかしてくれない。会社は面倒みるといっても限界がある。結局のところは仕事が終った後の自分の時間を削って、業界のこと社会のこと勉強してないと、営業の話しの中でお客さんに見透かされる。年相応ということがある。一回駄目なヤツと判断されたら厳しいよ。」

札幌の若手メンバーは厳しい営業を経験してきて、上役には冷たい目を向ける傾向があったけれど、君たち、その上司は大切にした方がいいよ。

N課長は、旅行会社の営業出身の四十代。小学生くらいの坊やがいる。日ハムとホテルのバイキングをこよなく愛する人物で、旅行会社の慰労会の趣向を凝らした選りすぐりの楽しみについて語ってくれた。


名古屋営業所で一緒になった、名古屋、岐阜、四日市の営業さんたち。F所長。K主任。Fさん。Iさん。優秀な営業マンということと、子供がまだ小さい・大家族を扶養している等の総合的判断だったか、リストラをまぬがれて、関連会社に四人が寄せ集めにされた場面に行き逢ったことがありました。

関西文化の影響圏らしく、それぞれがお笑いにうるさいムードメーカーでしたが、こんなことをふと聞かせてくれました。


Kさん。「四日市のマックなんかで数人集まって腐っていた時を思い出す。この会社は十年選手だろうがなんだろうが扱いはこんなものです。」

Iさん。「自分の担当した会社を手放すようなことはしないよね。だって自分の仕事がなくなったらどんなことになるかわからない。」

Fさん。「(完全に法螺話めかしてだが)自分はどのラーメンチェーンのフランチャイズが得か、どんな商売がいいか研究をおこたらない。今考えているのは『ワ−クマン』のフランチャイズね。これは妹夫婦にやらす。夜、店を閉めたあとは、俺が駐車場で屋台のラーメン屋をやる。二重にぼろもうけや。」

特に税理士の資格を持っているという冷静なIさんの言葉は、東京に戻ってから、今の同僚たちの社内での仕事ぶりを見る目を変えてくれたものでした。

  • 三、わたしが目にした名古屋と札幌の文化風土。

名古屋といえば、江戸時代の反骨が生んだ豪勢な文化とか、婚礼の華美さが良く話題にされますが、中古家電や家具の店が多く、生活者の街並みはだいたい古くて、寺社仏閣みたいな古色蒼然としたにおいがする街でした。

会社から厳しい目にあってから時間が経過していなかったからかもしれませんが、社員には、東京のお偉いさんが来ようが何しようが、できるだけ安上がりに、お酒を飲みたい、という気持ちがはっきり現れていました。あるいは「おしゃべりがご馳走」という風土なのかも知れません。

名古屋で仕事で会えたのは、家督を継いだ二代目、三代目の毛並みの良い人たちが多かったです。デザイン、美術系の若い人たちの動きが目立っていました。また、三十代の女性ギャラリスト(画廊主)が他の地域より多いのです。そうそう、登場したばかりの「SKE48」を生で見る機会が無かったのが痛恨事でした。


札幌は、カラカラに乾燥した風土なのには驚きました。氷と砂煙り。洗濯物は半日でパリパリ。

わたしが知り合った限りでは、人々は、コミュニケーションのとり方に屈託がなかった。とても親切で柔らかい印象でした。まず、人の見かけがあまり当てにならない。身繕いに余念がなさそうな人が、とても人懐っこかったりする。札幌の同僚のもてなしは、自分の知っている取って置きの店を案内するぞ、という感じで、本当においしいものが多かった事を思い出します。

ただ、広告業界は一握りの会社の寡占気味でみな苦しんでいました。IT 環境が浸透していないケースもありました。

短い滞在でしたが、札幌市内で学習塾の経営で成功を収め、夜は音楽三昧という実業家兼ミュージシャンの方がいて、ススキノでライブハウスやバーをやりながら音楽をやっている人たちの一角で、何人かの若手を対バンに呼ぶなどの活動を継続されていました。

中央:東京に人材を輩出もするし、流れてきた人も多い。東京でうまく行こうが行くまいが、客が居なかろうが、悪びれないで自分の音楽をやる人たちが多いのです。それが、流行おくれのダサい音楽という訳でもないのが恐ろしいところ。内地とは別の理屈で動いている。地方都市らしい地方都市でした。

後一言。東北には「男尊女卑」の気風がまだなんとなく残っているが、北海道にはおそらく無いでしょう。社内の女性たちは、ファッションも大胆でしたし、優秀でした。

  • 四、結局お前の仕事はどうなんだ。

自分の場合、「会社の中でも自分の仕事は自分でまもれ」というのは、実は今まで自分が考えてきたこととは違うし、そうするためには、実際は、なるべく怠惰に事を運ぶ、という事になってしまう。結局、会社の中でも“公共性”というか、誰でも関われるように整理しておく、仕事をわかちあう、というのは、今の会社の“社内文化”にはないんだな、というのが客観的に見て正確なんだろう。

新製品の開発も、他社の後手後手にまわるのは、理の当然というべきなんだろうなあ。

そして、ある「業界」に巻き込まれて、自分たちの商品を、値引きが当然の商品にしてしまったことは、決定的な一線だったんだな、と今更にして思います。

名古屋の噂を最近耳にするのですが、“好事不出門、悪事行千里”というのはまさに本当で、東京では、ささいな行き違いも好んで槍玉にあげられるのです。

関東の、気分は全能の、唯我独尊ぶりが目に余る。

  • 結びの結び。

「札幌」のホスピタリティの気持ち、北の都の気概をもって、「三河」の人の冷徹な目と直情的な心をたずさえて、生きたいものだなあ。