『ポストヒューマン』展。 @日暮里・鶯谷・三河島「レグゼ日暮里id - 503」*東京都荒川区東日暮里4丁目34-10-503。(2015/01/11 Sun. - 01/17 Sat.)



  • 角田塾 グループ展 TSUNODA SCHOOL GROUP SHOW"POST HUMAN"

美術関係者の皆様。そうでない皆様。
お待たせいたしました。一週間だけの24時間ギャラリーの誕生です。
鶯谷の怪しいビル群を抜けたその先、何の変哲もない
ウィークリーマンションの一室にてグループ展を催します。
24時間とはいえ、対応者が一人の日もあるためアポイントメントをとっていただく必要がありますが、
いつなんどき来て頂いても構いません。
通勤前の朝、けだるい昼下がり、終電を乗り過ごした夜、
お近くにお越し頂いた際にはぜひ、ご高覧ください。

2015年1月11日(日)〜1月17日(土) 24時間オープン アポイントメント制
お手数ですが観覧希望の方は事前に関係者に一報をください。
もしくはinfo(あっとまーく)kitamurabanbi.com
または090(はいふん)4833(はいふん)4728(北村)
までご連絡ください。
オープニングパーティー 1月10日(土)18時〜20時30分
東京都荒川区東日暮里4丁目34-10 マンション LEXE日暮里id
のどこかの部屋
※部屋の場所がまだ未確定の為 アポイントメントの連絡をしていただいた後の
返信の際に告知させて頂きます。

→ 部屋は503号室になりました。1階のインターフォンにて503を呼び出してお入りください。

出品作家;ヴァンだ一成 北村達也 神藤修治
      高橋克圭 谷林めぐみ 廃いゆー子 角田博英
ARTISTS : VANDA Issei / KITAMURA Tatsuya / JINDO Shuji /
     TAKAHASHI Katsuyoshi / TANIBAYASHI Megumi / HAII Yuuko / TSUNODA hirohide

↓会場入り口外観です。

↓地図にある道路をはさんで斜め向いの目印「いなげや」です。

↓入り口です。

                                                                                                                                                                            • -

『展覧会のあいさつ』 角田博英
                             

この度第2回展が開催される運びとなりました。
第1回展(2014年07月)開催の前後にとある波風が立ったのですが、
読書会は2度に亘る演劇鑑賞会(ゴキブリコンビナート、どくんご)や
展覧会の鑑賞を交えながら、継続されております。

2014年10月からその内容は戦後日本から近代日本編に移りました。
また多彩なメンバーの参加も仰ぎ、
ノイズ音楽演奏のレコーディング、リリースも行われました。

さてさて、美術史の本を読み漁りながら、
読書会で読めるような近代日本美術の文献を探しつつ、
いろいろざっと見ていくと、名高い論説文といえども
途中で論旨がおかしくなったり、
事実関係が微妙だったりするものに出くわします。

皆さん当時のジャーナリズムを鵜呑みにしていたのか。
近代美術の歴史的な文献はことさら淘汰されるのがはやいのか。

そんななかで哲学者「西田幾多郎」の、
これは選集としてはじめて編まれたものかと思われますが
「芸術哲学論集」というのがあって(1998年?)、表現もスタイルもエレガントな、
美術に関する論文を沢山書いていることを発見しました
(「書は凝縮された音楽である」とか)。

ところで、現状行っている読書会の面白さは、
びっくりするような合いの手が入ることです。
例えば、日本は「悪い場所」だという議論を思い出す、であるとか、
「自然」って一体なんだろう、であるとか、
そういう感想なりツブヤキが出てきます。


日本は「悪い場所」である論議は、どうやらポストモダン時代の
大きな議題のようです。

西田幾多郎ほか京都学派の周辺では、九鬼周造(『いきの構造』)、
和辻哲郎(『古寺巡礼』『風土』『鎖国』)といった仕事がなされていて、
ハイデガーフッサールの哲学との緊張関係が、最近の比較文化などで研究され、
「近代日本というアポリア(難問)」を体現した挫折の記録であった、
という見方が出てきているそうです。

今、生きられているこの日本が「悪い場所」であるというのは、
実はそんなに新味はないのでは?
難問に晒される場所であることは、先人の中には
わかっていた人が多いと思われます。

サブカルもいいですが、ハイカルをもっと幅広く研究して
情報を明示しておくべきだったのです。
自分たちの精神的な手持ち財産を目録にして、
しっかりグリップしておくべきだったのです。

先行する文化を持っていた国は、近代化で難問にさらされるのですし、
それが解決することは無い、と見たほうがいいです。
こういう事が常態化しているのです。
東西の項目の突き合わせなり、再創造なりを、営々と続けるべきなのです。


「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」
「あるきたくないよ。ああ困ったなあ。東京の美術展はみんなしけてるなあ。」
鶯谷氏と日暮里氏の二人の紳士は、ざわざわする寒気のなかで、
こんなことをいいました。
その時。ふとうしろを見ますと、立派な一軒の賃貸マンションの家がありました。
そして表札には

HIGH ART GALLERY
グループ展
POSTHUMAN
超人軒

という札がでていました。

「君、ちょうどいい。ここはこれでなかなか開けてるんだ。入ろうじゃないか」
「おや、こんなとこにおかしいね。しかしとにかく何か美術鑑賞ができるんだろう」
「もちろんできるさ。看板にそう書いてあるじゃないか」
「はいろうじゃないか。ぼくはもう何か美術作品がみたくてたまらないんだ。」

                                                                                                                          • -

『絵画の棒状化もしくはゴボウ化』 北村達也
                           

 15世紀の透視図法の発見と個人主義の伸張により、建築という総合芸術から徐々に
独立して表舞台に立ったのは、何よりも絵画であった。
絵画という平面芸術は19世紀後半の写真の発明により衰退するに見えたが、
20世紀末までは依然、芸術の中心たるものとして位置づけられてきた。その発展は、
むしろ写真や印刷などの複製技術の発達と互いに深く影響しあっていたと思われる。

 とはいえ、絵画はすべてを忠実に映しだす写真に対抗せねばならず、
純粋に視覚芸術として抽象的な構成を重視したもの、
また絵具などの材料そのものの物質性を重視するような絵画も多く現れた。
それは複製技術の進歩による、社会に溢れ出てきた視覚芸術情報の
絶対量の圧倒的な増加に対抗するものではなかったのか。

 例えるならそれは、情報という紙辺が上から紙吹雪のように落ちて堆積してくる中、
下にある絵画は、紙片と自らを区別するべく、筒状に丸まり「物質化」し、
埋もれまいと棒のように直立して固有性を保とうとしていたように私には想像できる。
(情報という紙片は紙幣=お金の暗喩にもなり得る)

 しかしながら、近年の爆発的情報量の増大は気が遠くなるものがある。
映画がコンパクトディスクどころか小さなチップに収まり、
写真そのものの数も、世界の人々が日々スマートフォン
撮影しているものを含めると想像してみるとよい。
25年前に比べて天文学的な増加をしていることは間違いなく、
「現代の我々の絵画」は奮闘むなしく情報の堆積層にあっという間に埋もれてしまった。

埋もれてしまった棒状の絵画は、現在、上層にたたずむ人々にとっては、
それが例えばゴボウであっても絵画であっても見分けがつかない。
それはすぐれた絵画であったとしてもそれが絵画であるという意味を持っているだけにすぎず、
ゴボウがゴボウであるという意味を持っているだけにすぎないという点において
同じ価値にしかみえなくなっているのかもしれない。

 それはデュシャンが便器をひっくり返して以来、脈々と成長してきた概念芸術の影響がある。
それは作品そのものの形態のクオリティよりもそれの作品が意味することを重視する、
いまでは現代美術のすべての領域にまで広がってしまった感覚が一つの原因であろう。
(余談だが、私は概念を重視する芸術、コンセプチャル・アートのシンプルな外観が
いわゆる現代デザインにも影響を及ぼしていると推測している)

 もはやこのように現代において絵画について論じることが
何かフワフワとした感触のないものになってしまった。

 ならば我々はどうすればよいのか。作品という視覚刺激に人間の意識の複雑さ、
相反する複数の事物を共存させるような複雑さを伝達するように努めようとするならば、
それらを作品そのものの物質や形態の美しさだけ収めようとするのだけではなく、
社会全般にとめどなく次々と降り注ぐ様々な情報の意味作用の関係性の組み合わせて、
人間の意識の複雑さを作品に込めなければならないのではないだろうか。

                                                                                                                                        • -

『複層のジレンマ』 高橋克圭
                            

右にも左にも身動きの取れない状態を、またいくつもの諦めとともに迎えている。
多様性の肯定が判断基準を疑い始めたその日から、内容のあるものとないものは見境なく、
絶対的なものから順に槍玉にあげられた。私が多感な若者だった頃のことで記憶して
いるのは、2000年に向けてただ絶え間ないこと、内容のない言葉だけの「永遠」を
羅列していく歌詞がJ-POPに蔓延していったことで、それも人々の精神の空虚さを
表しているだろう。もはやウタを歌うことを必要としなくなり、歌えなくなり、
聴くことができなくなった。ただ間延びして繰り返されるだけの音楽はリアリティを失い、
手法を再確認し、模倣され、形骸化してしまった。
目的の異なるものを一緒くたにして考える視点がやみくもでデタラメな視点と、
多様性という言葉を介して混同されてしまったのかもしれない。多様性と呼ぶべきで
ないものまでも多様性として受け入れるほどに見境がつかなくなってきているのかもしれない。
カメラは編集作業を後回しにして、何人もの人間の生まれてから死ぬまで、365日24時間を
複数台で撮影し記録したがっている。ある人間の80年の生涯を隈なく吟味し熟知する、
そのことに別の人間の80年の生涯が費やされ結局なにも残らない。人間が番号で管理され、
情報はその番号で呼び出され研究されるその日をひたすら待っている。
しかし研究は常に疑われ続けるから、判断保留の状態で、いつでもフラットな状態で
スクリーンに映写されることが望まれる。多様性とは批評なき時代のご都合主義とも
とれるものに思われる。
判断し批評する力を失うと同時に情報量の激増に対応するために速度が要求され、
益々自由を失っていく。鑑賞経験を持たないまま突き進んだ挙句、自分を信じるしかなく、
追い詰められてついには目的のすり替えを犯してしまう。本当に美術作品として
優れているものではなく、自分が優れていると思ったものが優れた美術となる。
リハビリ・アートに思いつき・アート、美術を学んでいない人々にとって親しみやすいものや
解り易いものが美術となっていく。自由を履き違えているのではないか?自由とは他の分野に
おいても、反抗期の子供のように好き勝手やりたい放題にやることではない筈だ。
なぜ美術だけに短絡的な自由が許されてしまうのか。そこには明らかに美術鑑賞に対する
無関心と、鑑賞の仕方の誤りがあるのである。「新しいこと」を求めて
「誰もやっていないこと」という目的にすり替わる。個性を尊重するのは結構だが、
多くの場合、尊重するほどの個性も見出すに至っていないのではないだろうか。
素晴らしい価値に気付くこと、その自由を放棄して、価値を創造することが素晴らしいという
傲慢を自由と思い込む、それが美術教育と対外的な美術の大きな問題に違いない。
今回のグループ展を含めた最近の角田塾の表現活動では多様性ということを考えている。
ひとつを肯定することで排除されてしまうそれ以外の部分をもすくい上げる多様性、
それに留まらず枠組みを外側から捉えてすり抜けていくような認識を、鑑賞者として
制作者として持ちたいと願っている。

                                                                                                                                        • -

『分裂と統合 〜 POST HUMAN展によせて』 谷林めぐみ
                            

 高校1年時、学習机横に書いた文字。「楽天家は死ね」・・どういう意味だったのか?
それは○×ゲームにおいて、常に多い方に行ける人に対するものであったと思う。
「正解」ではなく「正解だと思う方」。多数派はいつも得をする。何を意図しなくとも
多数派に行けるというのは、資本主義経済において一つの才能だ。多数派=楽天家か
どうかはさておき、ある若者の、叫びであった。正直、高校時代からはかなりの年数が
経つ訳ですが、多数派という「価値基準」は、更に加速しているかのようにも見受けられる。
SNS・・Facebookでの「いいね」なんかも、そうではないだろうか?キーワードは「そつない」。
「いいね」を押すのに、そつない記事。そつない音楽。そつない料理。不快なノイズが
含まれておらず、いいねを押しやすい。予定調和の世界だ。ここで疑問が生まれる。
不快な面が極端にないという事でより多くの支持を得たものが、いつの間にか素敵なもの、
いいものに、摩り替わってはいないだろか?しかし美術家として、自身に問う。
「摩り替えを必要とする、そつない美術作品で良いのか?」・・多数派の芸術なんて、
投網で捕獲されちまうゼ。。。

 感情や欲望とそれを制御する脳の、仲が良ければ幸せだ。しかし私には距離がある。
例えると、制御する脳が「これを食べよう」と注文し、内部が「こんなの食えるかー!」
と言っている。それでも食べて、落差に直面する。多数派用にデザインされたものを
使用せざるを得ない苛立ちも、そこに含まれるのだろうか?・・私は再構築を目指します。
美術作品として。全ては何なのか?情報を取り込み更なる分裂を試み、そして統合を!

                                                                                                                                            • -

       神藤修治

考え方や方向性、性格や性質、年齢や経歴も全く異なる人達が集まり、読書会を中心に
細々と活動してきた角田塾もスタートから約2年、第二回グループ展を行うことになりました。
皆それぞれの仕事を持ちながらの作品制作、また、展覧会を企画実行していくことの難しさや、
その間に生じる意見の相違などから準備不足のまま見切り発車で今回の展示の話も進んできました。
お互いに独特な関係と距離を保ちつつ、なんとなく物事を成立させていく曖昧さがこのグループの
大きな魅力であると同時に、静かに消えてしまいそうな弱さであるとも思います。
僕達が『POST HUMAN』を選んだ理由もそこにあるのかもしれません。

                                                                                                                                      • -

2015/01/10 (Sat.) 18:00〜 オープニングパーティ。

                                                                                                                                          • -

↓ヴァンだ一成作品

↓北村達也作品 


↓神藤修治作品




↓高橋克圭作品 


↓谷林めぐみ作品 




↓角田博英作品


↓廃いゆー子作品