「ドキュドラマと佐々木昭一郎的なるもの」ケン・ローチ監督作品特集@「仙台フォーラム・フォーラム1/3」。

チラシ

2006/12/27 (Wed) - 2006/01/19 (Sat) @仙台 北四番丁「仙台フォーラム・フォーラム1/3」。4作品上映。
明日へのチケット》(2005) ※競作オムニバス。
《やさしくキスをして》(2004)
《ナビゲーター 〜 ある鉄道員の物語》(2001)
《麦の穂ををゆらす風》(2006) ※カンヌ パルムドール賞受賞作。




2007/01/06 (Sat) - 01/19 (Fri) ケン・ローチ麦の穂をゆらす風》 @北四番丁「仙台フォーラム・フォーラム3」。


(14:15-16:00 ¥1,000-)


医学を学んだ弟のダミアンと、神父になるはずだった兄、テディの兄弟。
1920年の緑深い国アイルランド南部で起こるイギリスの圧政への反抗の歴史。
無残な暴力による統治。義勇軍IRAが秘密裏に結成される。英国軍からの反撃。捜査・逮捕・拷問・処刑。内輪でも口を割った少年を処刑(粛清)。そして傭兵軍を待ち伏せしての大規模な銃撃戦。
条約交渉開始。やがて分割統治時代に。今度はIRAの分裂。内戦の始まり。
かつて英国軍に襲われた同じ家屋を、今度は同胞が銃で脅し、仲間が死んだ同じ牢獄で、あまりにも皮肉な出来事が繰り返される。そしてとうとう肉親同士が...という内容。



簡潔で淡々と進む。30年代英国周辺の国らしく男性の服飾文化の形が整う。タバコをふかし、集団で移動する男たち。それから歌。
ニュース映画館の場内、事務所での議論、教会ミサでの演説と反発の一連のシーンには、「徹底した客観描写」という方法論意識が伺える。
ケン・ローチは、単なる記録映像のインサートとナレーションによる説明、というような「場つなぎ」は絶対にしない。


わめいて人々を脅す聖職者が登場。《やさしくキスをして》を参照してほしい。
帝国主義の下、植民地にされた歴史を持つ国々で教科書的に参照される映画なのだろう。


TBSラジオ『アクセス』で、ギャラクシー賞を取った小島慶子アナが、韓国の現代史の研究者に、思わず言った言葉を咎められたことがあった。
「あなたねえ...韓国人の方が、日本人よりも、政治に対する意識・感覚はずっと高いですよ。あの国がどんな歴史を経てきているか、あなたは知ってモノを言ってるんですか。」
そう。日本でこの映画が無感覚に見られていることは、本当は不思議なのかも知れない。途中で席をはずした老人は、まともな感覚を持っていたのかも知れない。
アイルランド、韓国、台湾、沖縄、インドネシア...知らないでいること、書き残せもしないことが、多すぎる国というものがすぐ身近にある。



2007/01/06 (Sat) - 01/12 (Fri) ケン・ローチ《やさしくキスをして》 @北四番丁「仙台フオーラム・フォーラム1」。


(12:30-14:20 ¥1,500-)


グラスゴーパキスタン人コミュニティ。ある一家の長男(英定住二世)が、英国人の女性教師と結婚したいと言い出したことから始まる家族・親類との軋轢。
親が勝手に手配した新婚夫婦用の部屋の建て増しは済むは、親が決めた許婚は家に来るは、姉の結婚が弟のせいで破談になり、おとなしい彼女に火がつくわ、親は半狂乱になるは。
女性の方には保守的な周辺層からの見えない圧力がヒシヒシ。
そしてオープンエンディング。...ローチでは珍しく、セックスシーン多い。


貧困とは全く無縁な中産階級の若い層の生き方が、以前の社会を変えてゆく様が描かれていると云っていいと思う。
移民パキスタン人社会から見れば、英国社会への同化の過程の始まりだし、時の流れのが生んだ当然の出来事とも言える。
別の面では、大きなコミュニティの体制側の人たちの、異質なものへの攻撃性が良く捉えられている。
恋人たちの日常も描かれる。恋の成り行きの微妙な感じがおもしろいか。夫婦喧嘩の種やね。
映画の題材本体としては「世俗の出来事」だが、他のローチ作品と並べると興味深い要素があると思う。



2006/12/30 (Sat) - 2007/01/12 (Sat) エルマンノ・オルミアッバス・キアロスタミケン・ローチ明日へのチケット》 @北四番丁「仙台フォーラム・フォーラム1」。


(18:10-20:10 ¥1,500-)※予告編含む。


テロ厳戒下のインスブルックからローマのテルミニ(ターミナル)駅まで走る旅客列車を舞台に、帰途にある老教授、警戒にあたる軍人、アルバニア難民の一家、不機嫌な中年女と不可解な青年コンパニオン、サッカー観戦にはるばる来たロンドン下町(グラスゴーか?)の青年三人組、車掌、乗り合わせた客らが紡ぐ出来事の映画。


1話。オルミ。空港封鎖で鉄道に振り替えられ帰途についた老教授。乗り合わせた少女の横顔。耳にした曲に触発され、親切な女性秘書に向け告白の手紙を書こうとする。やがて回想から目の前の現実へ。
手法的には同様の場面を別の角度から何度も繰り返してみせる場面が目だった。カットバック、クローズアップ多用。みつめる表情のアップ。物思いに耽る顔。とりとめない動作。群集の揃った動きがアクセントか。思い入れたっぷりでやや飽きる。プルースト的。


2話。キアロスタミ。偶然。予想外の出来事の連続か。世の中にはこんな人もいて、こんなことがおこるんだな。また、それにしても同じ人間だから奇矯なふるまいもわからなくはない。一回性の人間の運命なのか。
手法は、外側からずっと見ている。劇的に近づく。表情や顔色の微妙な変化をみせる(撮る)。その人が見ている対象とそのものを交互にモンタージュしてゆく。呼吸がぴったり。


3話。ローチ。遭遇と葛藤。子飼いの若い俳優陣が大活躍。あれよあれよ。物語というより事態の進展。成り行きの結末なのかな。感情の勢い流れにのせ一気に、という印象。
手法的には完全客観。他の乗客が見ている目線だろう。
他の二監督には、軒先を貸して母家を取られる体だったかも知れない。花をもたせたのか。ドラマとしては古典的な形式かもしれない。




2007/01/09 (Tue) - 01/12 (Fri) ケン・ローチ《ナビゲーター 〜 ある鉄道員の物語》 @北四番丁「仙台フォーラム・フォーラム1」。


(14:35-16:10 ¥1,500-)


“線路脇の真実の物語”〜1995年ヨークシャー。
何作か続けて見ての判断だが、これはケネス・ローチ監督のある面を代表する作品だろう。コミックな情景スケッチの後、ドーンと落とす流れが何回か連続する。スケートリンクの場面前後が特に面白い。アンチクライマックスなラブシーンも印象的。
最後の最後に4人の仲間が事故の隠蔽を計る訳だが、淡々としたオープンエンディングになる。ヘビーだ。
お前はこの腐敗を免れることが出来ているか? これは自問自答だ。



リアリティの問題。ローチ映画の場合、アングロサクソンは、話す(台詞を言う?)場面で良くどもる。
日本ではどうだろうか。一旦文章になった台詞を「噛まずに」話すことが求められるのではないか。
「台詞」に対する考え方が違うんだろう。



彼の経歴で、ターニングポイントになったらしい作品。《SWEET SIXTEEN》(2002) これは封切りの時見逃した。やはり有楽町の駅そばの映画館で、早朝上映だったと思う。