佐々木昭一郎第二次資料。放送批評。日本リアリズム論争の別分野への飛び火。変質を続けるリアリズム。


初出:社団法人シナリオ作家協会(東京都港区赤坂)『シナリオ』12月号。第27巻第12号(1971)。昭和46年12月1日発行 (P.39 - P.51)。部分。

特集「乱世のシナリオ講座6・“脱ドラマ”臨床学」。


対談『個的快楽追求のためのテレビ破壊』。内田栄一(作家)41歳。田原総一朗(TVディレクター)37歳。

  • 内田栄一 (1930-1994)。
    • 岡山の古書店の息子。50年代は文学。60年代はテレビ脚本(NHK和田勉・TBS『七人の刑事』)とアングラ演劇『ゴキブリの作り方』。70年代半ばから映画脚本『妹』『スローなブギにしてくれ』。自主制作映画とジャンルを横断して活動した。映画『きらい・じゃないよ』(1991)を監督。『竜二』の金子正次とも知人。カウンターカルチャー界の怪人。


  • 田原総一朗 (1934)。
    • 滋賀県出身。近江商人の末裔。1953年上京。交通公社に就職し早稲田大夜学に通う。小説家挫折。早大の昼間部に入り直し、1960年岩波映画に入社。1964年後発の「東京12チャンネル」入社。『ドキュメンタリー青春』『ドキュメンタリーナウ』の特異な演出で注目される。映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971)では経験がないため実際に監督はしていないらしい。『原子力戦争』(1978)の映画・著書が原因でテレビ局退社。フリージャーナリストに。現在はテレビ朝日朝まで生テレビ』(1987-)司会者などとして著名。

本誌  今号は“脱ドラマ臨床学”という特集でして、内田さんと田原さんに、ここでは脱ドラマを含んだところのテレビドラマ、あるいはドキュメンタリーを通してテレビという媒体についてお話し願いたいのですが。
内田さんは、現在、テレビ、映画、演劇というジャンルを超えた次元で作家活動をしていらっしゃる。
そして田原さんは、ドキュメンタリー『青春』から映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』を作り終えたところであると。
そういうお二人の現在の状況からいまのテレビを見まして、果してテレビドラマというものが、あるいはドキュメンタリーが、あるいは脱ドラマというものが一体あるのか、それともないのか、話のきっかけとしてこのことからお話しいただきたいのですが......。



田原  僕は番組の区分けではドキュメンタリー番組と言われているものをやっているのだけれど、僕は一度もドキュメンタリーだと思ったことがないわけですよ。
つまりドキュメンタリーと言うのは、現実の人間が出てきてね、現実の人間がそこで動くことですね。
一種のインフォメーション的なことを客は期待しているのではないかな。
すると田英夫が何を見たのだろうか、中国では今どうなっているんだろうとね、そういう意味では僕はドキュメンタリーはやったことがないんですよ。
だから僕はドキュメンタリーともドラマとも区別はしていないんです。
ただ一点、僕等がやろうとしたことは、ドラマでもドキュメントでもいいんだけど、テレビでものを作るということは、見ている客に対してのアジテーションだと思うのですよ。
で、アジテーションとは何かと言うと、例えば客がコーヒーを飲みながら、ブラウン管を見ているでしょう。
そこでバーンと何かぶつけると、とてもコーヒーを飲み続けられないようなシラけかたがね、単純に言えば。
で、そいつの持っている秩序とか、いろいろなものを破壊してゆくことだろうと思うのですよ。
いま、テレビであるドラマとかドキュメンタリー、つまりテレビの番組と言うのは、そのコーヒーをいかにうまく飲み続けられるかという、そのコーヒーを飲み続けることを、いささかも邪魔されない、あるいは邪魔しないようなテクニック、それがいまのテレビですね。
だからドラマでもドキュメンタリーも含めて、テレビにドラマとかドキュメンタリーとかいうもので言われるそういう番組があったかと言うと、僕はなかったと思うのですよ。



内田  そうね。何か非常に安っぽい形でテレビではドラマが要求されているし、ドラマというのが存在しているよね。
俺は今年の始めに〈はみだし劇場〉と言うので、東北の旅へ、一緒に行った連中に付合ったのだけど、そうしたらNHKが芸術祭参加の番組で『さすらい』と言うので、僕たちを取材に来たわけだ。
そうすると実に本が無いとか、ドキュメンタリーであるとか言ってね、新しいドラマだとか何とか言っているわけで、俺はまったくそういうのを聞くとジンマシンが出てきて、何をぬかすかNHKみたいなね(笑)俺はNHKは嫌いだからね。
だから簡単にドラマと言うものを自分のなかに選定してと言うか、非常に風化した形でドラマを掴まえて、それで今度はその虚妄のドラマをまた壊すということでね、ますますドラマが無くなってきていると言うか、だから〈脱ドラマ〉なんて言うことでなく、はじめからドラマが無いし、当然脱ドラマと言うことも成立しないしね。
それから脱ドラマとか脱サラリーマンとか、〈脱〉ということの風化ね。
そうすると結局、一番最初に何か実験的なことをしたヤツが脱ドラマと口走った時、あるいはそれを有することをやった時には非常に良かったかもしれないけど、それが風化するとますますタチが悪くなってね、脱ドラマというのが悪い意味でメッタメタになるね。



田原  そうね。まァ僕はこの対談のために先週ドラマを見たんだけど、ドラマというのは一つもないね。
まァテクニックとしては、僕等は太刀打ちできないほどうまいけど、これは危険なことでね。
それで、そのテクニックがむなしく使われていてね。
だから脱という言葉がテクニック化されたところがあるね。



内田  だからテレビというジャンルにおけるドラマがどうのと言うより、俺たちがドラマと言えるものは何であるか、みたいなところから発想して、この際、田原総一朗に解説してほしいんだけど。
そのドラマとドキュメンタリーの間の子、まあ普通の言葉で言うと間の子みたいなもの、それはドキュメンタリーの枠を破っているし、あるいはドラマの枠をも破っていると思える、いままでの田原の仕事を聞きたいんだけどね。


(後略)

    • この後の田原節・内田節は長広舌である割には良くわからない。「ドラマ」になにか特殊な意味をこめているらしい。






初出:社団法人シナリオ作家協会(東京都港区赤坂)『シナリオ』12月号。第27巻第12号(1971)。昭和46年12月1日発行 (P.24 - P.29)。部分。

特集「乱世のシナリオ講座6・“脱ドラマ”臨床学」。



『ドラマにおける「劇」概念』。


  • 五社英雄 (1929-1992)。42歳。
    • ニッポン放送プロデューサーからフジテレビへ。テレビドラマ・映画『三匹の侍』監督。剣劇アクション時代劇を得意とし、劇画原作も。その世界にかぶれて銃刀法違反で逮捕されフジテレビ退社。映画監督・制作者として宮尾登美子作品の映画化や『極道の妻たち』などでヒットを飛ばす。後年彫り師に依頼し背中全面に刺青をいれていたことを家族に打ち明ける。


五社英雄がドキュメント(フジ、フィルム構成『母と地球』『世界へ飛び出せ』)をやるというので呼び出される。
彼ははじめてテレビドキュメントをやるというのだ。
従って「あまりよくわからないからよろしく」というのだが、その直後にこういうのだ、「フィルム構成って、マジメすぎておもしろくないね。」
彼はドラマ屋で一家をなした伝法肌の浅草ッ子だからジクジクした閉鎖的なもの作りは好きでないのだろうとぼくは思う。
ぼくはいわゆるドキュメント番組が好きで、実のところドラマとフィルム構成を交々やってきた。
しかし五社英雄とは、ドラマ番組でもつき合ったことは一度もない。
彼はぼくをフィルム構成者として要請したわけだ。
二つの番組の五社プロデュースもしくは監督のによる八篇の作品を共にした。
いずれも海外取材番組である。
取材の前に二人で話し合い、ぼくが構成案をまとめ、彼が検討し、撮影プランを立てて取材に出発した。
そして撮ってきたフィルムを見る。
彼は、つまり非常にオモシロク、さらにマジメでなく撮ってきたのである。
どういう傾向が顕著に出たかというと、劇の構成、劇のストーリーを強引に組みあげたという点である。
外国で、素人の取材対象を相手に......。
これは決して簡単なことではない。
金も手間もかかるのである。
要するに劇演出の方法を、彼は曲げなかったのである。
従って、ラッシュの段階からも明らかにストーリーが見え、ストーリー通りにフィルムを組み上げて行くと、きちっとした海外ロケ「ドラマ」になるのである。
テレビドキュメント番組で海外取材ものといえば、総花式の異国紹介にならざるを得ない多くの制約がある。
だからどれをとってみても似たりよったりになる。
同じ制約下で、彼はそうしなかった。
信じた「劇」を撮って帰ってきたのである。


テレビに二十年ほどのドキュメント番組の経過がある。
文化映画的であるかラジオの録音構成的であるかの二つの流れからはじまって、やがてテレビドキュメントの特性を発揮しはじめたのが中継車による六十年安保闘争からである。


国会周辺をあますことなく同時中継し、それは限られた時間枠をどんどん超えて、一日中、国会議事堂とそれを取囲む大群衆を写し出したのである。
ジャーナリズムの反動がやってきて民法で言えばベトナム報告や成田空港問題あたりで、それまでの試みは、その方法論を後に殆ど残すことなく終焉する。
あの頃のテレビの即時性──それゆえにもっともテレビであったもの──は、パッケージされたドラマ番組やフィルム番組をどこか遠くたよりないものにしてしまった。
そして合理化、管理体制強化と期を一にして創造的な部分が消えた。
その上にテレビドキュメントに課せられたのは、娯楽性──視聴率──コストダウンのワクである。
その際の「娯楽性」とはテレビのおもしろさをめぐる特性の追求を意味しないし、単に商業性である。
一方、最近になってドラマ番組の商業性が落ちこみをはじめ、スタジオドラマが消え、映画会社による下請パッケージ売りにとって変えられて、テレビとしてはっきりとした後退をしたわけだが、さらにドラマ番組は減る傾向にあり、このことを指して「脱ドラマ」時代というらしくもある。


話はそれたが、五社英雄がフィルムドキュメントを作るようになった背景としてもこのことに触れておかなければならなかった。



五社英雄は、テレビ局が言う「脱ドラマ」の中で結局ドラマを撮ってきたのである。
形式はフィルムルポなのだが、......。
人間描写が葛藤に従い、その葛藤を、はっきりとシチュエーションの上で設定し、その演出方針に従って彼は強引に素人の取材対象に迫り、心を動かすよう要求してやまないのだ。
その上、ぼくが五社演出のドラマ番組からは想像することもできなかった、ドキュメント屋ならとうにあきらめていただろう華麗で美しい数多くのショットをつかみとってきたのである。
こうでもしなきゃ、やった気がしないといった顔つきである。
もう、こうなると、ぼくの出る幕なんかない。
それは、五社英雄そのものであり、ぼくはいくらかの補足的なコメントを弄んだにすぎない。


例えば、スペイン篇で若い闘牛士志願の若ものを通じてスペインの現実を......という撮影プランによれば考えも及ばなかったことなのだが、その若ものの夢を一夜かなえてやったらどうなるかと五社英雄は思いついたようだ。
そして五社プロモーターは、なんと若ものの出身地の村で草闘牛を開催したのだ。
母親はほんとうに心配して涙を流し、息子である若ものは、牛の角でさんざん尻を突かれて観衆の哄笑を買ったのである。
彼をスターにするポスターから脇役の闘牛士やらなんやら、草闘牛をあますところなく写し出さなければおさまらなかったにちがいない。
またイタリー篇で、日本の農村をそっくりそのままの農業状況、あるいは都市集中──過疎をといった撮影プランが、現地で急撮イタリアに残る最後の巡業芝居の一座を取材することに変更され、一家を一週間、独占してしまった。
ドラマのように......という五社英雄の考え方は、そうしたシチュエーションの要求を生むし、まさにドラマのようになったのである。
つまり、取材対象の人物に刺激を与えその反応を写しとることによって状況を明確にしようとするのである。
だが、これがあやまりだとは、ぼくは決して思わない。
フィルム構成によるドキュメントは、つまるところ、そこまでやれないもどかしさをもちながらも、劃然と演出を生むからである。
要するに、「マジメだ」といった五社英雄は「フマジメ」だと言ったのだ。
あたかも、まさに真実なのだ......というようなフィルムルポの場合においても、作為は消えるわけではないのだし、取材者の世界が転写されるのは当然なのだから、
いっそ徹底的に転写するためのこしらえでいいじゃないか......というわけだ。
五社英雄のほうが、ずっとマジメなのだ。
ぼくはこの際、彼はカメラを自分で廻すようになるべきだと考える。
そしてドカドカとカメラアイで他人の世界に自分を転写すべく強引にふみこむべきだと。
彼はなにをどのような形式でやろうとも、彼が信じた「劇」を写し出す以外にないのだ。


ともあれ、ぼくは彼との半年あまりのドキュメントづき合いの中で、ドキュメントのことはあまり考えられず逆にドラマ番組のことを考えた。
それならばドラマとはなにか、と。




      • 1970/11/01 (Sun.) フジテレビ(11:00)『母と地球』スウェーデン編「働く母親たち」。
      • 1970/11/08 (Sun.) フジテレビ(11:00)『母と地球』西独編「ルール地方・炭鉱夫の家庭」。
      • 1970/11/22 (Sun.) フジテレビ(11:00)『母と地球』スペイン編「見習い闘牛士と母」。
      • 1970/11/29 (Sun.) フジテレビ(11:00)『母と地球』イタリア編「旅芸人の母」。旅回りのロメロ一座。



読売新聞 朝刊 テレビ欄 1970/11/22 (Sun.)

「試写室」

見習い闘牛士と母。

故郷で惨たる戦い・五社監督の“非情な目”。

母と地球・スペイン編。カラー フジ 午前11:00。

マドリードで闘牛のポスター売りだった青年は、なんとか故郷にニシキを飾ろうとしたが......。


三匹の侍”など、ダイナミックな男性ドラマを作っていた五社英雄監督制作。
ドキュメンタリーというよりも、スペインの風土と人物を五社流に組み立てたドラマとなっている。
それだけにわかりやすく、面白く、迫力もあるが、ヒューマン・ドキュメントの基礎ともいえる素朴な感動が薄いのは、ドラマ作家のナマの素材に対する安易な妥協があるからではなかろうか。

オルテガ青年は、スター闘牛士を夢みて故郷を飛び出して三年になる。
ひょんなことから村に帰ることになり、彼を迎えた村人たちは前途を祝って村の闘牛場で彼にデビューのチャンスを与えた。

だが、母のセシリアは、むすこが闘牛士になることを許さない。貧しい生活にも神のお恵みがあるのだとむすこに説いた。
母の祈りにもかかわらず彼のデビューはみじめだった。
牛に突かれて逃げだしてしまったのだ。
だが、再びオルテガはスター闘牛士を夢みて故郷をあとにした......。

「普遍的な母の愛に一石を投じその波紋を見たかった」と、製作意図を語る五社監督は、制作費で牛を買い、自らプロモートして見習い闘牛士に初めて牛とたたかうチャンスを与え、死への心配とスタッフへの恨みにぬれた母の目をとらえた。
「実際はもっとドラマチックだった」素材を、起承転結のドラマに凝縮したのは「カメラを向けたらもうドキュメンタリーはない」という持論からだ。
五社監督は二十九日放送のイタリア編「旅芸人の母」も担当。

(な)